地政学リスクの特長として、リスクが顕在化するころには、軌道修正が困難な程大きなスケールに到達してしまっていると言う点が挙げられます。これは、急にリスクが膨れ上がると言うよりも、一つ一つのローカルレベルでの出来事の積み重ねが、国際的な問題に発展することはよくあることです。その例として、今月8日にフロリダ州のデサンティス知事が署名したFlorida Senate Bill 264の法案があります。こちらは、中国人によるフロリダ州内の土地の購入を禁止する法案です。Interests of Foreign Countriesと名付けられたこの法案が成立したことで、7月1日から、アメリカ国籍、またはグリーンカードを保有しない中国人(中国国籍保有者)はフロリダで不動産を購入することが出来なくなります。また、アメリカの国籍やグリーンカードの保有の有無関係なしに、中国、ロシア、北朝鮮、キューバ、ベネズエラ、シリアの国籍を保有する人は農地、または軍施設から10マイル(16キロ)以内の土地を購入することが禁じられます。
これまでアメリカによる中国に対する規制は、主に企業に対したものでした。しかし、今回は中国国籍を保有した全ての個人を対象としています。これを見たとき、私はトランプ大統領が2017年1月の就任から一週間後に発動させた大統領令のことを思い出しました。通称「Muslim Ban」と呼ばれたこの大統領令は、イラン、イラク、リビア、ソマリア、スーダン、シリア、イエメンからの入国を拒否するものでした。当時トランプ大統領はこの大統領令の理由を「アメリカ国内にテロリストを入れない為」としています。この大統領令によって最長で120日間、対象国の移民・難民が入国拒否とされました。アメリカ政府が特定の国籍、または人種を特定して特別な措置を行うのは最近始まったことではありません。1942年にルーズベルト大統領の下で発動した大統領令9066号は、約12万人の日系アメリカ人の強制収容にと繋がりました。もっと歴史を遡ると国際的な黄禍論の一連の流れから生まれた『中国人排斥法』(1882年)はアメリカ政府が大統領令としてではなく、米議会の審議を通して成立させた唯一の国籍、人種を特定して入国拒否を行った法律とされています。この中国人排斥法により、外交官、教師・学生、貿易業者等以外の中国人はアメリカに入国できませんでした。このように、アメリカは連邦レベルでも過去に、国籍、人種を特定して入国拒否、または特別措置を行ってきました。
何故、今回のフロリダ州で成立した法案が地政学的に問題なのでしょうか。これは、冒頭で書いた、「ローカルレベルでの出来事の積み重ね」と言う点に繋がります。一つ目は、デサンティス知事についてです。彼は、2024年の大統領選挙の共和党候補者の本命の一人とされています(報道によれば、早くて来週にも出馬表明をする予定です)。アメリカの世論調査を分析するウェブサイトFiveThirtyEightによると、5月18日時点で、次期大統領として支持されているのはトランプ前大統領が一位(53.5%)で、デサンティス知事は二位(20.8%)の位置にいます。一位との間に大きく開きがありますが、投票日までまだ一年以上あると考えると結果は未知数です。次期大統領を目指すために、外交面でも積極的に活動をしています。今年4月の訪日の際に岸田首相と面会を行い、「最大の脅威」と位置付ける中国への強硬的なスタンスを日本政府に伝え、日米同盟の強化の必要性を説きました。この国内外での積み重ねを経て大統領に就任すれば、大統領の権限を行使して、より一層中国に対する強硬的な方針を打ち出すでしょう。
二点目は、州の間での連鎖です。今回のフロリダ州で成立した法案は、他の州に波及する可能性があります。特に共和党が上院下院共に過半数を占める州で連鎖的に拡がる可能性があります。現に、アーカンソー州では同様の法案が州議会で審議されており、テキサス州では農地等の特定の用途に特化した土地を対象とした法案が可決されました。モンタナ州では、今月17日に「TikTok」の個人端末での使用を禁止する州法案にジアンフォルテ州知事が署名しました。同アプリの利用を個人端末で禁止する初めての事例です。勿論、これは個人ではなく、企業に対する禁止措置ではありますが、保守的な州で、似たように中国を締め出すローカルレベルでの動きが増えてくるでしょう。今回のフロリダ州による動きに感化されて、類似した法案を議会で審議する州議会がこれから出てくると予想されます。
三点目は、アメリカの方向性についてです。懸念点①と②が相まって、今後、アメリカ全体で中国人、中国国籍保有者に対する当たりが強くなってくることが最も大きな懸念点です。これによって、米中関係をより悪化させることは間違いないでしょう。今後このトレンドが続けば、中国からも報復措置が施行されるでしょう。中国では、非居住者でなければ、土地の使用権の取得自体が難しいので、中国政府が対抗措置を行う時は、不動産の所有権以外の領域で行うと予想されます。報復合戦は多くの場合、政治的な意図や報復そのものが目的となってしまい、国家安全保障政策との関連性は二の次となってしまいます。アメリカ国内でも、このエスカレーションに対して懸念を示している政治家はいます。例えば、アジア・太平洋諸国系アメリカ人を代表する議連のCongressional Asian Pacific American Caucus(通称CAPAC)は、今回のフロリダ州の法案がアジア系アメリカ人に対する差別の助長と二国間の対立の激化を懸念点に挙げて批判的な声明を発表しています。しかし、残念ながら、現時点でこの議連の全メンバーが民主党の議員なので、超党派のメッセージとしては受け入れられていません。むしろ、一層アメリカ国内の分断が浮き彫りになっているのが実情です。また、イギリスの調査会社のRedfield & Wilton Strategiesが1,500人のアメリカの成人を対象に行った世論調査によると、63%がフロリダ州の新法案に賛成していて、その中の35%が強く賛成していると答えています。一方で、反対を示したのはたったの8%でした。このような世論の中で、両党の「中道派」議員が集結し、CAPACと同じメッセージを発することは政治家としてハイリスクです。これを機に国内の分断を癒すことはあまりにもハードルが高すぎるでしょう。
外国の政府と繋がりがあると考えられる企業、団体、個人を自国の国家安全保障の目的で警戒することは重要ですし、土地の購入等の行動制限を許可する法制度も必要です。ただし、今回のフロリダ州の法案の問題点は、特定の国籍を持った全ての個人を対象としている点になります。外国籍を保有する個人が不動産を購入する場合、他国の政府との繋がりを調査する為、厳格な基準を設けたデューデリジェンスを法制化すればいいわけです。そのプロセスを経て、初めて、購入可、不可の判断に移ればいいのであって、「中国共産党はアメリカの脅威だから、全ての中国人が不動産の購入できなくしよう」と言うのはあまりにも論理が飛躍している気がします。このような論理がまかり通ってしまう状況だからこそ、各地でどのようなローカルレベルの動きがあるか読みにくいのです。フロリダ州のSB 264はあくまでも一つの州の法案ですが、これが一つの大きな分岐点となると思えるほど、インパクトのある出来事だと私は考えています。