ここ最近、地政学という言葉をよく目にするようになりました。私が大学、大学院で国際関係論を学んでいた10年ほど前は、地政学というと、政治家、外交官、軍人、学者が政策決定の一環とした学問というイメージが強かったと思います。一方で、今書店に行くと、一般書として地政学に関する書籍が多く並んでいますし、新聞・雑誌の見出しにも似た内容を頻繁に見るようになりました。この類の話が好きな私にとっては、とても嬉しいことです。ただ、地政学という学問は以前から存在していたにもかかわらず、なぜこのタイミングで再注目されているのでしょうか。その議論に入る前に、一度地政学とは何か、についてみてみたいと思います。
広辞苑では、「地政学」とは「(Geopolitik ドイツ)政治現象と地理的条件との関係を研究する学問。スウェーデンの学者チェーレン(R. Kjellén1864〜1922)が首唱。主にドイツにおいて第一次大戦後の政治的関心と結びつき、ハウスホーファー(K. Haushofer1869〜1946)によって発展、民族の生存圏の主張がナチスに利用された。地政治学。」とあります。これを読むと何だかナチズムと関連性の強い学問だと思われそうですが、これは若干ミスリーディングだと思います。と言うのも、地政学はナチスだけではなく、世界各国が軍事戦略、外交政策、安全保障政策の意思決定に用いた学問だからです。アメリカ人に地政学の生みの親は?と聞けば、海軍の軍人のマハン(1840~1914)、と答えるかもしれません。イギリス人に聞けば、政治家のマッキンダー(1861~1947)と言うかもしれません。『恐怖の地政学(Prisoner of Geography)』(2016)でティム・マーシャルは、地政学とは「国際情勢を理解するために地理的要因に注目する学問」と説明しています。地政学の祖は誰かという議論はさておき、それぞれの定義に一環しているのは、地理的要因による政治、国際情勢への影響を分析する学問と言うことになります。マハン、マッキンダー、ハウスホーファーの時代は軍人、政治家が地政学を学んでいましたが、今の時代は、政府、軍隊以外の組織がそれを学ぶことが増えました。一企業がグローバルに供給網を展開していたり、海外拠点を持っていたり、駐在員が各地に赴任している場合は、国際情勢がどうなっているかフォローすることは極めて重要なことです。グローバル化により、地政学は政策決定者のものだけではなく、ビジネスパーソンにとって身近な学問となったのです。
冒頭の話に戻りますが、なぜ地政学と言う言葉を最近よく目にするようになったのでしょうか。また、これまでにないスピードで技術革新が起こり、グローバル化が進んだ結果、人、物、情報、金が極めて短い時間で移動できるようになった今、地理的要因は本当にこれまでのように政治、国際情勢に影響を与えているのでしょうか。私は、一見矛盾しているこの点、つまりイノベーション、グローバル化で「フラット化」したこのご時世に地政学が再注目されているという点は非常に納得がいく現象だと考えます。のジャーナリストのトーマス・フリードマンは2005年に出版された『フラット化する世界』で、これからは地理的要因は重要でなくなり、世界中のどこにいても同じ条件で経済的競争に参加できると言う説を唱えました。今、巷で地政学が見直されていることを見ると、フリードマンが予測した未来はまだ到来していないと言えるでしょう。世の中が地政学に再注目している理由は、イノベーション、グローバル化が進んでも、引き続き地理的・物理的な要因は政治現象、国際情勢に大きな意味合いを持ち、副次的にビジネス環境にも影響を及ぼすと言う事実を再確認しているのだと思います。
改めて、なぜその再認識が「今」なのでしょうか。これは言うまでもなく、米中対立、コロナによるパンデミック、ウクライナ情勢の3つが大きな要因だと考えています。これは、長期的トレンド、中期的イベント、テールリスクという視点で説明したいと思います。一つ目の米中対立は他の二つと違って突発的なイベントではなく、長期的なトレンドです。そのジリジリとした長いストレス下で世界中の人は生活をし、企業はビジネス判断をし続けなければいけません。ましてや、日本は資源や物資の供給の多くは台湾海峡のシーレーンを通って輸入している為、台湾有事の場合は、国内の経済活動に大きな打撃を与えるでしょう。状況によっては、日米同盟の枠組みの中で、自衛隊が参戦しないといけなくなるかもしれません。そうなれば、日本が参戦国としてみなされ、日本の安全保障環境はガラッと変わってしまいます。二つ目のパンデミックでは、人の流れが二年ほど一斉にストップしてしまい、物流にも大きな影響を与えました。これは、米中対立よりも短い、一連のイベントです。今の時点ではコロナ終焉とは言い切りませんが、コロナ禍では人の動きに頼る産業(観光、教育、交通等)の業績は大きく落ち込み、逆に人との接触を必要としない事業(eコマース、オンライン会議、オンラインゲーム・ストリーミング等)の業績は大きく伸びました。パンデミックは地政学とは関係ないだろうと言う方も中にはいると思います。しかし、各国の政府が打ち出した水際対策やワクチン政策によって経済活動は大きく左右されました。ワクチンの開発に成功した国(短期間でワクチンの開発が可能な企業がある国)は、「ワクチン外交」を通して、自国の優位になる条件を紐づけて他国に譲渡することも目立ちました。三つ目のロシアによるウクライナへの侵攻は、(私の知る限りでは)誰も予測しないタイミングで起こったいわゆる「テールリスク」です。テールリスクとは、めったに起こらないが、実際に起こった場合は非常に大きなインパクトのあるリスクのことを指します。プーチン大統領の暴挙は、クリミア半島の統合までだろうと考えていた専門家が殆どだと思います。まさか米国、欧州、それらの同盟国・友好国を敵にしてまでも首都キーウに侵入するとは想像もしなかったでしょう。これにより、エネルギー価格が急激に高騰し、主に小麦粉を原材料とした食品も値段が上がり、グローバル規模でのインフレーションの大きな要因となりました。それに伴い、各国の中央銀行は利上げを余儀なくされましたが、賃上げが難しい日本では引き続き金融緩和が続き、米国の金利との利幅により円安が進み、ドル建ての輸入に頼っている企業の業績に大きく打撃を与えました。以上のように、地政学的な長期的なトレンド(米中対立)、中期的なイベント(パンデミック)、テールリスク(ウクライナ情勢)が重なると、地政学はより重要視される傾向があります。こちらの傾向を説明した枠組みについては、また別の機会に詳しく説明したいと思います。
地政学は今ホットな話題と言う説明はしましたが、果たしてこれからも必要な学問なのでしょうか。アフターコロナの時代が到来し、ウクライナ国内の経済活動が元に戻り、脱ロシアの供給網が完成した世界では、もう地政学は必要ないのでしょうか。私は、その未来がやってきても、地政学は重要な学問になり続けると考えています。その一つ目の理由として、米中の対立はまだまだ続くと思われるからです。数年前までは、「日本は米国と中国、どちらにつくか?」というような内容のテーマがメディアでよく議論されていましたが、近年の政府の動向や企業の「ゼロチャイナ」戦略を見ると、より米国路線になっています。だからと言って決してアメリカの方針に沿っていれば安心な状況でありません。アメリカと中国の間で、貿易・金融制裁、関税、安全保障政策、ソフトパワー等を用いて、報復の連鎖は続くでしょう。米国政府が日本を含む同盟国に対中国の半導体規制に追随することを要請したことがいい例です。このような難しい立ち位置にいるからこそ、日本人、日本企業は中国政府、米国政府が打ち出す政策に敏感でなければなりません。二つ目の点として、どれだけテクノロジーが進んでも、地理的・物理的要因は人、企業、国の意思決定に影響し続けるからです。メタバース上でNFTやブロックチェーン等の技術を利用して、社会・経済活動が可能になっても、当然のことですが、実際のユーザーがリアルでの生活を継続できなければ、そこに参加することができません。また、メタバースを構築するためのハードウェアを製造する為に必要な資源、製造、物流も地政学に左右するでしょう。どれだけ限りなくフラットに近い世界になっても、地理的要因はアクター(人、企業、国)が選ぶことのできる選択肢に大きな影響を与えます。
地政学自体は、真新しい学問ではありませんが、フラット化できない世界で、長期的なトレンド、中期的なイベント、テールリスクが重なっている今だからこそ、その重要さが再認識されていると考えます。そして、これからも、地政学を通した政治現象、国際情勢の分析は個人、企業にとって極めて重要であり、意思決定の際には欠かせない視点となり続けるでしょう。Asaoka Instituteは、今世界で何が起こっているかについて、フェアな地政学的な視点で情報発信していきます。